常滑盆栽鉢の歴史

盆栽の伝来と共に中国産の鉢が日本に輸入されるようになりました。おおよそ江戸時代末以前のものを「古渡り(こわたり)」、1890〜1920年代のものを「中渡り(なかわたり)」、1920〜1940年代のものを前新陶(ぜんしんとう)あるいは、新渡(しんと)、1945年以降の鉢を新々陶(しんしんとう)と呼んでいます。なお、日本盆栽協会が中心となって、大正、昭和期に中国で制作され日本に輸入された鉢を「大昭渡(たいしょうわたり)」と呼称することを1994年に決めました。平成時代に輸入されたものを「平成渡(へいせいわたり)」といいます。
常滑焼の盆栽鉢は三代赤井陶然(1818-89)が最初と言われており,その蘭鉢が現存しています。史料によれば、明治10年の第1回内国勧業博覧会で花盆が出品されて以来、多くの盆栽鉢が製造されています。わが国では江戸中期以降は泥物鉢が重用され、明治15年頃から大阪で始まった盆栽熱を皮切りに東京でも朱泥製品が多用されました。これら泥物は中国の宜興盆(ぎこうぼん)を真似て大量生産されものです。大正末期から昭和初期にかけて、常滑では泥物を活かして格調の高い風雅な盆栽鉢に指向したので、愛好家からは中国産と並んで珍重され、「大正常(たいしょうとこ)」と言われています。とりわけ片岡平愛は、懸崖鉢の名人といわれ、中国式タタラづくりに秀でていました。昭和35年頃、水上庄蔵は、無釉盆栽鉢(常滑烏泥)を鋳込成形で製作し,大量生産の道を開きました。そして、長方雲足の盆栽鉢はベストセラーになって関東をはじめ全国に送られました。昭和40年頃からは高度成長の結果、所得と余暇が増大し、皐月ブームと相まって常滑盆栽鉢の地位を不動のものとしました。その後は高級な盆栽鉢"Tokoname"ブランドとして世界にその名を留めています 。(常滑の陶業百 年より抜粋)