バタン島漂流記解説

尾州知多郡大野村木の下町

現在の常滑市大野町4丁目で、権田姓を持つ人々が今でも住んでいる。

寛文八年申九月

現在のグレゴリオ暦では1668年10月

権田孫左衛門

権田氏まつりで漂流記が紹介された。 権田氏まつり

商船

いわゆる千石船で、船員が15人であることからして700-800石であったと推定される。

千賀志摩殿

千賀氏は尾張藩の船奉行、いわば水軍の責任者で、詳しくは 堀川端の役所のホームページをご覧ください。

3石

米穀を計る単位1石は10斗で、約180リットル。和船の積量では、10立方尺で、約280リットル。

婆靼

フィリピン北部のバタン島。漢字では「波丹」「馬丹」「巴丹」「巴旦」「婆靼」などを使う。

大西風

主に冬期に吹く北西の強風。寒冷前線が通過し、西高東低の冬型になると日本海から敦賀湾、琵琶湖、鈴鹿山脈を抜けた北西の季節風が強く吹きます。この北西季節風によって熊野灘や遠州灘における遭難が多い。

桶に露たまり

漂流した場合苦労するのが、飲み水の確保である。ポルトガル語で、ランビキ(alambique)と言われる手造り蒸留器を使って飲料水を作ったことが記されている。

中村権右衛門

初代 源右衛門重政(1585)
二代 源右衛門重直(1640)
三代 源右衛門重延(1664)
四代 宗左衛門重定(1668)

  海に面していることから海上交通がめざましい発展を遂げ、海運業が発達し、戦国時代から江戸時代には、廻船が大活躍しました。大野町には近世における廻船総庄屋・中村権右衛門の存在が知られています。

師崎に本拠を構える船奉行の千賀志摩守の配下に属し、江戸時代を通じて知多地方の船舶を管轄する尾張藩唯一の廻船惣庄屋を代々務めました。
廻船惣庄屋の仕事は、
@非情の場合に軍用船や水主などを集める事
A知多半島の船舶の増減を船奉行へ報告すること
B難破船があった場合の後始末
C異国船漂流の際は出張して、常備の船・水主を呼び集める事
Dその他、廻船の積荷などに関する問題や運賃等の交渉を行うこと
です。

バタン島漂流記は、正式には 寛文八年申九月 大野村木之下町権田孫左衛門船婆靼國江 吹流候口書一件(ごんだまござえもんふね ばたんこくえふきながれそうろうくちがきいっけん)と言いますが、口書とは、裁判における供述や主張、取り調べに対する返答を記述した調書です。
船奉行の千賀志摩守の配下に属した廻船惣庄屋であった中村権右衛門の名前があります。


海音寺(常滑市大野町3-11)の過去帳には、帰国した者の俗名に加えてバタンと記してある。